sosu’s diary

地方国立大学。アメリカ文学。サリンジャー。森見登美彦。

バナナフィッシュ。

どうも、素数です。

 

最近、バナナフィッシュっていうアニメを見ているんですけど、なんで見始めたかっていうとthe perfect day for bananafishっていう短編がサリンジャーの作品にあるから関係あるのかなと思ったからなんですよね。

 

まぁ、今んとこ直接的な関係はなさそう。作者がアメリカ文学好きなんだろうなと。サリンジャーヘミングウェイフィッツジェラルドなんかの短編の名前がタイトルになっていて少しテンションが上がる。

 

そのアニメではバナナフィッシュは死の前兆だって言われている。まぁ、否定はしないけど、肯定もしないかな、研究している身からすれば。

 

何事も前兆ってあるけれど、その当時前兆に気が付けるかというと必ずしもそうではないよね。

 

でも、僕は人の感情にはその前兆があまり見られない気がするんだ。

 

というのも、気分が下がる時って急に下がるし、上がる時もじわじわ上がるんじゃなくて急にバッコリ上がったりするじゃない。僕だけなのかな。

 

やっぱり人の心って掴み所のないゼリーみたいなものなのかなって。

 

さっきまでつかめていたと思って手を開いて見たらなーんにも残っていない。

 

だから僕はよく思うんですけど、昨日まで好きだった人が明日には嫌いになるってことは悪いことでもなんでもないと。人の自然な反応なんじゃないかなって。

 

そういう心の動き方しちゃう人って未だと情緒不安定だみたいな感じであまり良い印象を人には与えないけれど、本来の心ってそんなに実体があるものじゃないと思うんですよ。

 

前兆が見えるっていうのはそれだけ幸運なことなんだ。

 

啓示って言葉があるようにさ。

 

だから、バナナフィッシュってある意味幸運を運んできてくれているとも言えるんじゃないかな、言えないか?

 

死が先に待っているのがわかっていれば、やれることも見えてくるんじゃないかな?

 

そんな野暮な人生送りたくないけどね。

頼むから静かにしてくれ。

どうも、素数です。

 

事実は小説より奇なり。ってよく言いますよね。

 

みなさん、本当にそう思います?

 

ちなみに僕はそう思いますねぇ。現実に起きた大事件も小説にして見たら陳腐な物語で、一切話にならないみたいなことってやっぱりあると思うんだよね。

 

例えば三島由紀夫の『潮騒』では小さな島にやってきた島の長の娘(なんで島の外にいたかは忘れた)。その娘と世渡りは下手くそだが、腕っ節と人望を兼ね備えた島の若い男が恋に落ちるという話。それには恋敵がいて、恋敵は金も権力もあるけど中身がポンコツ。さらに島の長、つまり娘の父親からも反対されていた。家族はほぼ村八分みたいな状態。そんな中でいろんな難局を超えて彼らは結ばれる。

 

男と女の恋心はどんな波をも超えていけるんですね。

 

そんな物語。でも物語としてはやっぱりありがちなプロット。誰が読んでも大体途中でオチがわかる。でもこれが現実に起きていたら、それの当の本人だと思ったら「なんだこの人生!」ってなると思うんですよ。フザケンナ。

 

つまりはそういうこと。

 

事実が小説より奇怪なんじゃなくて、受け手側の想像力が足りてないってだけなんじゃないかって思うわけ。

 

世の中想像力が足りないってのは時としてとんでもない爆弾になる。

 

だから、事実が小説より奇怪に見えてしまうんじゃないかなと。

 

でもそう認識しているなら、自分の中の世界線では間違いではないんだと思います。奇怪に見えるから奇怪なんだ。その通りっす。

 

だから、小説って本当に奇妙な話じゃなきゃいけないんだと思うんですよね。例えば、レイモンド・カーヴァーの短編集 『頼むから静かにしてくれ』 のような。僕は短編ってこうあるべきなのかなと思いますね。JDサリンジャーナインストーリーズとかもそうだけど。

 

いつかキャッチャー・イン・ザ・ライの話とかもしたいな。

 

あと言い忘れていたんだけど、三島は僕が敬愛する作家で、『潮騒』はその中でも特に好きな作品なんで読んでみてください。

 

陳腐な事実ですら三島が描くと文学になるんです。

水族館のガラス。

どうも、素数です。

 

今回こんな臭いタイトルにしたのには訳があって、今さっきまで目の前で友人が彼女と別れた後の大号泣をしていた訳です。

 

彼が彼女に別れを告げた訳ですが、彼はなぜか泣いていました

 

自分から別れを告げて泣いている友人を見たことはこれが初めてではないものの毎回「どうしてなんだろうか」と不思議に思います。

 

だから、聞いてみたのです。

 

彼は言っていました。別れた後の方が今まで言えなかったことをたくさん言えるようになったと。それが皮肉だと。

 

確かに。

 

人間関係って意外にも近くに見えてめちゃめちゃ遠いってことよくあると思うんですよ。どういうことかというと、僕は水族館のガラスによく例えるんですけど、水族館のガラスってあー見えて何重にも分厚いガラスが重なっているんですよ。近くに見えて絶対に届かない。温度も音も振動すらも届かない。ただ視覚情報だけは横にいるような感覚になる。皮肉ですよね。だから近づこうとして自分自身を傷つけたり、なんで向こうが自分に干渉してくれないのかと苛立ったり。

 

相手のことを思う故にお互いが傷つくっていう結構えげつい道具なんだと思うんですよ。

 

でも、嘘も方便という言葉があるように視覚的にだけでも隣にいてあげるだけのこともある意味優しさなのかなと。

 

愛ってなんだと思います?

 

相手の目を見続けるってことが愛の形だっていう人に会ったことがあるんですけど、その話を聞いた時から僕は同じ方向を同じ熱量で見続けることが愛なんじゃないかなと思うようになりました。

 

相手の目だけを見続けてしまえば、周りの景色は次第に見えなくなって視野狭窄に陥ってしまう。それじゃあ二人とも落ちていくだけ。片方が目をそらして周りの景色に気がついたら、自分の目を見てくれない相手に腹が立ち、悲しさが湧く。適度な距離感。

 

意外と近しい人との関係って難しいですよね。

 

 

一息つき、夜空に月

どうも、素数です。

 

僕の生まれは東京なんですけど、東京ってやっぱりめちゃめちゃ空が小さいんですよ。で、今は大学で北のまた北にいるわけなんですが、月がとても綺麗

 

気温が低いから空気が澄んでるのかどうかは知らないけど、星もよく見えるし夜はとても寒いけど、それが心地よく感じる日もたまにある。

 

そんで、やっぱふと見上げた空に綺麗な月があるってのは人を感傷的にさせる気がしますね。

 

夏目漱石がi love youを月が綺麗ですねって訳した有名な話があるように月を見上げた時に誰かと一緒に居られるっていうのはとても素敵なことなんだなと思うわけです。それは男でも女でも友人でもパートナーでもなんでも良いと思う。ただ共有できるっていう事実はデカイ。

 

古典でも月は女性のことを指したりとか、やっぱり月から連想できるのは想う人のことが多いけれど。

 

まぁ、そんなことは置いといてなんでこんなタイトルにしたかというと、特に深い理由はないのですが、僕はラップが好きで特に鎮座DOPENESSっていう人が好きなんだけど、彼の楽曲にHOT COFFEEって曲があってそこの歌詞をパクりました。

 

でも、すごい素敵な歌詞だからぜひ聴いてみて。

 

コーヒー飲んで一息ついて見上げた夜空には月ってこと

 

僕はコーヒーは人生のスパイスになると思うんですよね。コーヒーって一気飲みするものじゃないじゃない?ゆっくり飲む。一人で飲むとしてもいろんなことに思いを巡らすし、誰かと飲んだらそれはひとときの安らぎになる。

 

つまりはそういうこと。

 

コーヒーはこの2年くらいで飲めるようになったから好きか嫌いとかしかわからないけど、それだけで良いよね。好きな人の理由を全部あげるのは野暮なのと一緒だと思います。

 

最近はスタバのバリスタがいる店舗で高いやつを全部制覇しようとしているんだけど、なんとも財布が寂しいことになっております。学生だからさ。

 

とりあえずのナンバーワンはハワイのカウってコーヒーなんで見かけたら飲んでみて。

Rest in Peace

どうも、素数です。

 

Rest in Peaceっていうのは訳してみると安らかに眠れ的な感じなんですけど

 

なぜこんなタイトルにしたかというと僕の敬愛するKobe Bryantというアメリカのバスケットボールプロリーグ、NBAのレジェンドがヘリコプターの事故で去年の1月26日に亡くなったから。

 

すげぇ、きつかったのを鮮明に覚えている。

 

確か引退した翌年とか翌々年とかだった気がする。

 

Kobeってのはmambamentalityって言葉ができるくらいにすごいメンタルを持った選手だったんだよね。black mambaってのが彼の愛称。

 

まぁ、彼の全盛期については僕もよく知らない。なぜなら、アリンコくらいに小さなガキだったから。俺がよく知っているKobeは苦悩のKobe。

 

2010年彼は膝の軟骨の手術をしたんだ。体の酷使から軟骨がほぼなかったらしい。というかずっとKobeは長い出場時間による酷使で満身創痍だった。そんなKobeが2011年には出場時間をセーブしたおかげか最高のコンディションだった。でも、そこで彼は開幕直前に右手首の靱帯を断裂。だけどもだけど、そんな怪我も物ともせずに彼は大活躍をする。

 

2012年には大型補強をしたんだけれど、噛み合わず迷走、Kobeの役割、出場時間が増える。そんな中、Kobeはとある試合で左足アキレス腱を断裂する。

 

そん時が本当にすごくて、倒れ込んだKobeを見て誰もがこれはやばい怪我だなって思ったんだ。でも彼は立ち上がってフリースロー二本とも決める。アキレス腱が切れているのにもかかわらず。これがmambamentalityなんだよ、絶対に折れない不屈の闘志

 

次のシーズン、彼は八ヶ月ぶりの復帰戦で右膝を骨折し、またシーズンをほとんど棒に振った。こんなことってありかよ。ってマジで思った。でもKobeは選手生命が終わるような怪我を乗り越えて次のシーズンまた帰ってきたんだ。

 

一年ぶりに復帰し、シーズンが始まって二ヶ月くらいかな、Kobeは右肩の腱かなんかを断裂して、九ヶ月の治療。

 

二つの大けがを乗り越えた人に課す試練じゃないだろうに。三通目の赤紙

 

僕はその時、もう二度とKobeのプレイは見れないだろうと思った。めちゃめちゃ悔しかった。僕は彼のプレイに勇気をもらった。折れそうになってもバスケを続けられた。

 

だけど、Kobeはまた帰ってきたんだ。すげーよほんと。

 

そしてその年に彼は引退する。でもただで引退するなんて彼らしくない。彼は最終戦で60得点という驚異的なスタッツを残して、black mambaを演じ続けたんだ。

 

そんなKobeは引退の4年後(調べたらそんな後だった)ヘリの事故で亡くなる。神様っているのかなって本気で思ったね。いくら試練を乗り越えても彼には終わらない試練があった。一生挑戦し続けたKobeは今天上でもワークアウトしてる、きっと。

 

だから、俺は絶対に物事諦めちゃいけないし、どっかでKobeは見てるんじゃないかって思ってしまう。「お前の限界はその程度か。」って。だから負けたくないんだよね。mambamentalityはこの世界のKobeファン全員が継承してるんだから。

 

そんな風に再び気合が入った一週間だったような気がする。

 

It's time to say good bye. By Kobe Bryant

 

RIP.

上海蟹食べたい。

どうも、素数です。

 

みなさん、上海蟹って食べたことあります?僕はないです。

 

上海蟹食べたい、あなたと食べたい。」

 

くるり琥珀色の街、上海蟹の朝」からの引用なんですけど、良い歌詞ですよね。youtubeのコメント欄に、蟹食べる時って人間静かになるよね。ってよく言われるけど、そんな静かな時間も苦にならないあなたと一緒にいたいって風に考えると染みるよね。的なコメントあって僕的には「なーる」ってなりましたね。

 

youtubeのコメント欄ってたまに宝石のような神コメントあるから見るのやめられない。

 

僕のyoutubeはこの曲の次はVaundy東京フラッシュが流れるんだけど、そこのトップコメントは「田舎で聴けば農協フラッシュ」。良いよね。

 

目を閉じれば そこかしこに広がる 無音の世界 不穏な未来

 

確かに。

 

ただガタイの良さには騙されるんじゃない お前と一緒で皆弱っている その理由は人それぞれ

 

一見、強そうに見える人は実は脆いみたいなことよく言われるけど、脆くない人なんていないんだわ。最近くるりをよく聞いていたらそんなふうなことを思い出すようになった。

 

まぁそんなことは置いといて、上海蟹あなたは誰と食べています?一緒に食べる人がいる人は大切に。いない人は僕と食べましょう。

 

今日はヘミングウェイの短編を読み返していたんだけれども、多分Nickも一人で食べるんじゃないかなぁ。そんな気がする。高校の時の先生が言ってたんだけども、「一人になれない人間は二人になれない。一人になれる人間は他の一人との出会いがある。」って。「なーる」って思ったねその時は。今は特になんとも思わないけれど。正しいか正しくないかは俺には判断がつかない。みんなはどう思う?

 

でも、今上海蟹を一人で食べている人は僕らで食べればいいんじゃないかとこの曲聴いて思ったわけです。

 

まぁ、僕はカニが苦手で2回くらいしか食べたことないんだけど。

 

素数